雨過天晴の光の中へ
左から林屋晴三氏 長谷部楽爾氏 小山富士夫氏 繭山順吉 昭和45年 1970 古美術 別冊1 東洋陶磁の世界 1970 三彩社 23頁 座談会「東洋
左から林屋晴三氏 長谷部楽爾氏 小山富士夫氏 繭山順吉 昭和45年 1970 古美術 別冊1 東洋陶磁の世界 1970 三彩社 23頁 座談会「東洋
繭山順吉資料室は、皆様からのご質問を募り「ウェブ資料室」サイト上でお答する機会を設けます。日頃からの疑問をこの機会にお寄せください。内容掲載にご同意いただき「資料のお問い合わせ」フォームよりご質問をお寄せください。 ご質問の受付期間は、
終戦を蘇州で知らされた繭山順吉が所属する部隊は、昭和21年1月に上海へ移動します。この時に繭山順吉は、今まで荷台にしか乗った事のないトラックの助手席の、中隊長の隣に座らされました。中国語と英語を話せたからです。上海には、帰還命令
繭 山 綾 子 昭和20年8月15日、繭山順吉は蘇州の駐屯地で終戦を知りました。 その2年前、昭和18年4月に召集を受けた繭山順吉は、津田沼入営、下関から釜山、天津、南京を経て4月末に杭州に到着、入隊訓練を経て中隊に配属され
繭山綾子 2021年の新年、私は繭山順吉没後23回忌の法要の準備にとりかかりました。繭山順吉の画像を投影することになり、材料を我が家の資料庫から選び始めました。原稿の文箱を開け、付箋を貼りの生涯を遡って行きました。新型肺炎の流行によ
繭山順吉のメキシコ訪問は、1962年2月のことでした。2度目の欧米視察1961年9月から1962年6月の9ヶ月の行程の途中、空路ダラスからメキシコシティに入りました。 二月十二日(月)晴 メキシコシティ National Pal
母の日に寄せて、繭山順吉の母についての記載をご紹介いたします。繭山美代(1892-1955)は22歳で順吉を出産しました。44歳の時に夫、繭山松太郎を亡くし、以後繭山順吉とともに商売継続に尽力した人物です。 「母は十八歳で父の処
1970年・昭和45年3月、東京・内幸町の帝国ホテルは建替えが終わり新館の営業が始まりました。その荘厳なホテルに設けられたショッピングアーケード内に、繭山順吉は日本古美術店を開業しました。繭山順吉56歳の時のことです。当時、新たな認識と
京橋の家屋 1960年竣工 店側2階 写真のショウケースと陳列台は現在も使われている。 繭山順吉 1960年 41歳 京橋の家屋 店舗側1階 京橋の家屋 住居側1階 1960年 繭山順吉は、ここで手短かに
繭山順吉の父、繭山松太郎は、1882年(明治15年)富山県八尾市に生まれました。 「若い頃、佛教の教典に四恩と云う言葉があることを知った。即ちその一は父母の恩、その二は衆生、その三は国王、四は三宝の恩、どれも尤もなもので私は賛成である。(中
2023年は、東京内幸町帝国ホテルの2代目本館「ライト館」での営業100年の記念の年になります。繭山順吉は、帝国ホテルのアーケード店について、著書にこう記しています。 「大正十一年震災の前の年、父は帝国ホテルに小さい支店を出した。宝石商植
繭山順吉の美術商としての考え方や生き方を垣間見ることができる一節を著書から抜粋してご紹介します。 埴輪について 「かねてより、日本では埴輪を考古資料として見てきたが、戦後これを日本の美しい美術品として誰もが認めるようになった。外国人は日本美