『美術商のよろこび』より川端康成氏との交流

繭山順吉の美術商としての考え方や生き方を垣間見ることができる一節を著書から抜粋してご紹介します。
 
埴輪について
 
「かねてより、日本では埴輪を考古資料として見てきたが、戦後これを日本の美しい美術品として誰もが認めるようになった。外国人は日本美術が古くから中国及び朝鮮文化の影響を受けてきたという見方から、日本独自の美は何であるかということに深い関心を持っている。平安時代や、桃山や江戸の元禄時代の美術品は、間違いなく日本特有の美をあらわしているといえようが、私は埴輪こそ、日本の美を具現しているものと思う。」
 
「私は、沢山の埴輪を商品としてとり扱った。その中で、私が一番好きな埴輪は、川端康成先生に買って頂いた奈良県櫟本出土の女子の頭である。(中略)川端先生ご自身の解説で『ほのぼのとまどかに愛らしい。均整、優美の愛らしさでは、埴輪の中でも出色である。この埴輪の首を見ていて私は日本の女の魂を呼吸する。日本の女の根源、本来を感じる。ありがたい。』と述べられている。」

(「美術商のよろこび」 繭山順吉 便利堂 1988 P.130 )

  

  
川端康成氏には戦後の木造の自宅店舗に何年にもわたってお越しいただき、繭山順吉は川端氏の鎌倉長谷のご自宅へも伺い、交流を深めました。品物をお見せするとき、会話は少なく静寂の中でじっと作品を見つめ、帰り際にご購入を告げて応接室を出るのがいつものことでした。そのようにしておすすめした品をお取上げいただき一流の文学が添えられるまでを見届ける体験が重なっていきました。 戦後復興の1950年前後、30代の繭山順吉は美術商のよろこびをお客様との交流を通じて教えていただいたのです。やがてサンフランシスコ条約が発効され、日本の文化芸術への注目が高まりました。そして海外市場における日本の鑑賞美術の可能性を確信してゆきました。
 
 

この記事について問い合わせ