母の日

 

母の日に寄せて、繭山順吉の母についての記載をご紹介いたします。繭山美代(1892-1955)は22歳で順吉を出産しました。44歳の時に夫、繭山松太郎を亡くし、以後繭山順吉とともに商売継続に尽力した人物です。
  
 
  
「母は十八歳で父の処に嫁いだ。(略)母は郷里八尾町では指折りの婦人で(略)結婚して、北京に行き、かれこれ十年程してやっと東京に来た。それも銀座だった。(略)
  
京橋に来てから母は築地本願寺によく出かけた。ある年の夏休み中、(略)毎日母に引き連れられて築地本願寺にお参りに行った事もあった。戦争が始まってから、母は本願寺の決めた門徒としてのつとめを誠によくつとめた。当時本願寺はお金を集めて、負傷兵の入院先のベッドの数の不足しているのを聞き、献金する仕事をした。母は近所の人は知人を廻り、各家で十円、二十円と少額の寄付をお願いした。(略)私が昭和十八年、招集後中隊に配属されたが(略)杭州陸軍病院に入院を命ぜられた。毎日横になるベッドは、特に母が集めたお金でつくったものであるかはわからないが、母の集めて作ったベッドと思い、心が安らかだった。(略)

  

母は慈愛の人であった。私は商売は父から、母からは佛様の慈悲を学んだ。」

 
      (「感謝」繭山順吉 便利堂 1993 P.76 )
 
 

 

昭和10年 上海の取引先業者と繭山美代・繭山順吉 上海杏花楼にて

昭和10年8月 上海同業者と繭山美代・繭山順吉

6月に他界した繭山松太郎に代わる仕入取引挨拶の返礼歓迎会にて

 

 

 

繭山美代(前列左)築地本願寺にて 左奥には聖路加国際病院が見える 1950年代

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