終戦を蘇州で知らされた繭山順吉が所属する部隊は、昭和21年1月に上海へ移動します。この時に繭山順吉は、今まで荷台にしか乗った事のないトラックの助手席の、中隊長の隣に座らされました。中国語と英語を話せたからです。上海には、帰還命令を受けた従軍関係者が集結しはじめていました。繭山順吉にとって上海は、戦前に「中国かよい」の商売で慣れた土地です。当時商売で常宿としていた扶桑館を訪ね、懐かしい女将と再会しミシンを使わせもらい、とても助かったと聞いています。上海を出港した引揚げ船は、昭和21年1月27日鹿児島に到着。繭山順吉はこの日のことを「鹿児島に上陸 復員」と記録しています。
〈 扶桑館ラゲッジシール 戦前の参考品 〉
そして昭和21年1月31日、終戦から5か月半、ようやく繭山順吉は東京に帰ってきました。京橋の我が家は東京駅からすぐ近くです。ところが、
〈 1945年5月25日の空襲後の東京駅周辺 左下に被災した繭山家が写っている 〉
繭山龍泉堂と我が家は焼跡に変わり、瓦礫が一面に広がっていました。近所の研ぎ屋の山本さんが野宿をしていて、「繭山さんは中野の家にいる」と教えてくれ、今度は歩いて中野に向かいます。中野の家に到着し、玄関に入り「繭山順吉一等兵、ただ今もどりました!」と挨拶すると、母・美代はへたり込んだといいます。昭和19年6月の戦地から届いた「最後のはがき」のあと音信不通になってから1年7か月が経っていました。頼りの長男が戻ってきました。
ここから繭山順吉の戦後が始まります。復建に取りかかった繭山順吉は、お客様・會津八一氏へはがきを出して近況を報告しています。繭山順吉は前しか向いていません。もう美術商の仕事だけを考えてよいのです。
繭山順吉書簡 會津八一宛 新潟市會津八一記念館蔵
三月六日
「お久しふ御座います。先生、お変わりも御座いませんか。
私先き頃 復員して参りました。おかげさまで元気ですが、自分らの努力の足りなかった事を恥じてゐます。先日小山富士夫様にお目にかゝり、先生の消息賜りました。お家も愛蔵品もすっかり焼けたときゝ、心が暗くなりました。
先生もどんなにお力落としかと、お察し申してゐます。内地へ還り、余りの災害で呆然としました。然し幸いに健康ですから、これに屈することなく元気を出してやらねばと堅く心に決してゐます。只今、焼跡にバラックを建てるべく、努力してゐます。又先生にお茶をのみに来て頂きたいです。母も妻も子も健。頑張ります。」
會津八一氏は、東京空襲に被災し、心を痛める心情を昭和20年4月に歌に残しました。
やけあとに たてばくるしも くだけちる せいじのさらの つちにまじりて
秋艸道人
(終)
※戦時下、長期の従軍で想像を絶する体験をされた方々、還らぬ人々を思うと、この作文にためらいがありますが、平和への願いを込めて掲載いたします。
出典
「街の中の會津八一 東日本編」公益財団法人 新潟市會津八一記念館 2013年 60頁・58頁
「東京新聞」または「産経新聞」1994から1995年の別刷り特集版
「やけあとに」は會津八一歌集「寒橙集」の「焦土」に所収
参考文献
「ドキュメント昭和2 上海共同租界」NHKドキュメント昭和取材班編 角川書店 昭和61年