繭山順吉の終戦(前) 

   繭 山 綾 子 
 

昭和20年8月15日、繭山順吉は蘇州の駐屯地で終戦を知りました。

  
その2年前、昭和18年4月に召集を受けた繭山順吉は、津田沼入営、下関から釜山、天津、南京を経て4月末に杭州に到着、入隊訓練を経て中隊に配属されました。ところが4ヶ月後、体調を崩し杭州陸軍病院に入院、翌年退院、昭和19年6月湘桂作戦に出陣します。揚子江を遡って武昌、岳陽、長沙、南岳、桂林まで、10ヶ月にわたり進軍しました。そして昭和20年4月反轉、今度は揚子江を下って蘇州まで戻り駐屯します。そこで8月に「日本は負けた。日本に原子爆弾が落ちた。」と聞かされたのです。繭山順吉31歳の出来事です。
  

 
繭山順吉の従軍中の足跡を、戦後生まれの私が細かく書けるのは、祖父が遺した「順吉・應召から復員までの記録」という1冊が手元にあるからです。この記録によると、中支到着後の杭州での記述には不自然な表現が目立ちます。たとえば「立派な軍人となり直接お役に立ちたい」「自分の生涯の中、軍隊生活のこの何年が最も立派な人生ならん。」「ご安心ください。自分が壮健で立派な奉公ができたら繭山家は万万才」。厳しい検閲を十分にわかっていたと推測されます。確かに祖父の字ですが、私の知る祖父が書く文ではなく、おかしい。そして激しいストレスを連想させる文面が続き、とうとう「自分は駑馬、鞭打ち、やれるだけやる。」と記した後に杭州陸軍病院に入院となってしまいました。出征に5セット持参した眼鏡が、ぶたれたり殴られたりして壊れ、あっという間に最後の5つ目になってしまった、と生前の祖父から聞いた話は、この頃のことと思われます。私は、敵と戦う前に、味方から眼鏡が4つ壊れるほどの平手打ちを受ける祖父の話を、全く理解できませんでした。
  

 
美しい品それぞれの尊いところを見抜く眼を養い、お客様の喜ぶ顔を糧とする、それまでの暮らしからの境遇の激変に、懸命に順応しようとする葛藤が読み取れ、たまらなく胸が痛みます。杭州陸軍病院での10ヶ月の間には、前日まで会話していた隣のベッドの兵士が絶命し、穴を掘って埋葬する経験をしました。
 

  
一方で、病院は郵便通信がそれなりに安定していて、日本とのはがき文通が可能で、京橋から新聞や書籍が本人に届いていたことが記録からわかります。入院中の繭山順吉より京橋に宛てたはがきは、検閲を意識した軍人精神の記述箇所を取り除いて、以下の内容に分類されます。
  
①    家族・店員・知人の消息を確かめ合う内容
  
②    店と商売を案じ指示を出す内容
「お店もこのむつかしい時に好成績の様子勿体ない事です。すべて林さん始めお店の皆様のご盡力のたまものです。」「どんなことになっても龍泉堂の皆が何時までも仲よくガッチリ手をつないで行く様に、それのみ念じてゐます。」「敏恵がお店の箱書することも、自分大変うれしいです。段々手不足にもなるし、手傳ってください。」そしてこのような、はがきがありました。「杉山さんの便りでお店の近況、知りました。林さん始め皆さんのご努力で、引き続き好成績の様子、感謝に堪えません。(略)辰砂の壺、A様の紹介で納まった由、よかった。A様からも書面が来たので返事を出した。大阪Bさんから十月上旬の展観図録送ってくださり、見た。自分しばらく、ここにゐなければならぬ様子だから、店の様子、ここ宛に知らせて下さい。猶『古美術』誌、及『陶磁』誌、この頃の分、送って下さい。」「古美術二月号到着、楽しく読みました。」
  

 
やがて「お天気が良いと気分も晴々します」「日日是好日 合掌の生活 精神に張りが出来てきた」独特の語彙が戻り回復が視られます。祖父への薬、生きる希望は、美術商の繭山順吉、繭山順吉の中の美術商を、取り戻すことだったのです。
  

 
それでも従軍は続きます。そして戦地の繭山順吉から家族への最後のはがきが、突然京橋に届きます。

このはがきを最後に音信不通となり、東京の母美代、店員、四国伊予に疎開していた妻、娘は終戦後まで、消息を知ることはできませんでした。
  

 (続く)
 
  
  

 

 
※戦時下、長期の従軍で想像を絶する体験をされた方々、還らぬ人々を思うと、この作文にためらいがありますが、平和への願いを込めて掲載いたします。

 
※「」の引用文の人名は一部アルファベットにおきかえました。

 
  

 
〈参考文献〉

 
「美術商の百年」東京美術倶楽部百年史編纂委員会 編 153頁 戦時下の東京美術倶楽部 

  
「順吉 應召から復員までの記録」

 

 

 

この記事について問い合わせ