1970年・昭和45年3月、東京・内幸町の帝国ホテルは建替えが終わり新館の営業が始まりました。その荘厳なホテルに設けられたショッピングアーケード内に、繭山順吉は日本古美術店を開業しました。繭山順吉56歳の時のことです。当時、新たな認識と関心が高まっていた日本の絵画彫刻工芸品を紹介するための拠点を整える構想が実現したのです。
繭山順吉の戦後は、欧米の美術館・蒐集家との交流を重ねる50年代60年代でした。その中で、専門家にとどまらず海外の広い層に向けて、日本の独自の美意識と美術品を発信する使命を強く自覚していきます。西洋からの需要に古美術商の立場から応えるためにするべきことは、先の海外視察の体験から明確で、着想は現実的で計画はつつがなく進みました。華やかなホテルのリオープニングのタイミングは宿命的でした。帝国ホテル内のアーケード店舗に商品としての日本美術を集め、本業の中国古陶磁の取り扱いをより専門性の高いものとする原点回帰も視野に入れた展開でした。
日本を代表する国際的なホテルの新館アーケードへの出店は大変名誉なことです。溢れる期待が繭山順吉の作成した「帝国ホテル・ショールームの構想(案)」冊子に記されています。昭和43年、この計画の初期の文章です。
「私の美術商としての一生をふり返った場合、昭和六年春龍泉堂に入り、父の指導を受けて、中国陶磁を学び、戦争を迎え、戦後は、日本美術にも興味を持ち、中国陶磁と併せて、商売してきたが、最近は、日本美術に益々興味を持って来た。
然し私の日本古美術に対する知識はまだまだ乏しい。私の龍泉堂社員としての定年まで、あと数年ある。この年数を日本古美術の勉強と、商売に力をつくしたい。
この度の帝国ホテルショールームの開店は、その1つの意欲のあらわれである。
私のかねがね思っていることは、日本古美術を今以上に売る為には、西洋人にもつと日本への関心を持たせ、日本に来てもらい、日本の風土、人情、文化財を見てもらうことが大事なことだと思っている。
子供に物を教える様に、かんでふくめる様にしなければならない。東京国立博物館に案内する、畠山美術館につれていく。今までした様に、日本古美術に関する西洋人にわかり安い本を出す。同時によいものを見せる。等、あらゆる手を打たなければならぬ。
すぐ効果があらわれなくても、この様にする事は、日本古美術に対する興味を持つ西洋人の数をふやし底辺を広め、何年、何十年さきの日本古美術の商売に、よい効果をあらわすことと確信する。(略)
商売をしながら、外国から日本へくる古美術愛好家のインフォメーションの仕事をする。要するに、奈良、京都の文化財見学のアドバイスや、古美術関係の書物のアドバイス、同業者への紹介、この店に来れば、今、どこで何の展覧会をやっているか、そこにいくには、どうして行かれるか、現在、本店でやっているそのような仕事を、もっと一般的にする。
新しく出来る帝国ホテルアーケードはその立地条件、又、そのキャリアからして、完成後は、日本第一の良いアーケードになると信じる。どこのホテルに泊まっていても、帝国ホテルアーケードは、初めて日本に来た人でもたやすく来られる。(略)」
(「帝国ホテル・ショールームの構想 (案)」 繭山順吉 昭和43年 1968)
構想が実現した日本美術ショールームのウィンドウディスプレイ 1970