繭山順吉 資料室
MAYUYAMA JUNKICHI ARCHIVES
繭山順吉資料室は、繭山順吉自身が残してきた写真と文書、文献、原稿の保管庫です。大正・昭和期の美術商家の暮らしを背景に、どのように美術商を志して行動したのか、人物像とその精神をご案内します。
ウェブサイト版では、公開できる範囲が限られております。Web版資料室を閲覧いただき、より詳細な資料がご入用の場合は、お問い合わせください。目的に応じて資料をご提案いたしております。
【資料例】
著書・書簡・覚書・取り扱い目録・図録・掲載誌など
繭山順吉 資料室について
WHO OPERATES THE
MAYUYAMA JUNKICHI ARCHIVES
繭山順吉資料室にご訪問いただき、ありがとうございます。
鑑賞美術、とりわけ古美術品を取り巻く環境は大きく変わってきています。多彩なテーマの美術展示が開催され、またオークションが広く普及し、インターネットで世界中の品々を閲覧できる時代になりました。しかし、便利になる一方で、疑問が浮かびます。
近づいて触れてみたくなる古美術品との出会いは増えたでしょうか。お気に入りの空間で古美術品のストーリーに心を寄せる時間は充分にありますか。
時代の流れの速さは、古美術品をおのおのの人生に重ね、親密になれるせっかくの機会を飛ばす勢いで加速しているのではと考えさせられます。
私は、生まれ育った美術商家で正面扉を押し開いてご来店くださるお客様の期待の表情を見てきました。時を忘れて品物に魅入る研究者愛好家は、途切れることなく続いています。間違いなく品もの選びに充分に時間をかけているのです。
古美術品には、今を生きる私たちをそっと肯定する、おおらかな生命力があります。心を満たす造形美が遠い昔に生まれ、今手元にある不思議に身を委ねる体験。古美術品との対話の価値は、現代においてもはかり知れません。
そして、その間を取り持つ美術商も健在です。お客様に代わって世界の市場を駆け回り、汗をながす美術商の役割は大きく変わっていないことが、100年前に美術商を志した繭山順吉の記録から浮かび上がります。
ひとりの美術商の記録が、あなたの日常に鑑賞美術の世界を近づける、このサイトはその入り口です。
繭山順吉が他の美術商と違うところは、リサーチと記録を残すことに時間と労力を注いだことです。繭山順吉は、写真に記録し、資料収集を絶えず続けました。美術専門誌への寄稿も数えきれないほどです。整理したり、書きまとめたりすることが億劫にならない性格でした。そしてそれを独占せず、商品に添え、快く同業仲間と共有し、日本の古美術業界の成長を純粋に願いました。
そのような祖父の精神がこれからも伝わっていくように、このウェブサイトを公開しました。繭山順吉を支持してくださった、お客様はもちろんのこと、国内国外の同業者、風呂敷から修繕、運送、各々専門業者に、祖父からの感謝と御礼に、私からの敬意を重ねて、孫の私がこのサイトを運営します。
女子美術短期大学造形科卒業。ニューヨーク大学履修途中で帰国し、日本橋 株式会社浦上蒼窮堂にて修業。その後、繭山龍泉堂、クリスティーズニューヨーク中国美術部門の研修勤務を経て、現在、株式会社繭山龍泉堂相談役。繭山順吉資料室主宰。
繭山順吉
MAYUYAMA JUNKICHI
繭山順吉は、大正時代に生まれ、昭和時代に活躍した美術商です。
当時日本では聞きなれない「美術商」という職業を開拓した人物として知られています。順吉は、美術品流通の現場で育ち、商売の経験を積み、中国古美術品の専門家として美術商を名乗ることに誇りを持っていました。リタイア後も85歳で亡くなるまで、東京京橋で美術商の移り変わりを見守り続けた生涯でした。
来 歴
CHRONOLOGY
富山県に生まれる
第一東京市立中学校(現九段高校)卒業
古美術商繭山龍泉堂入店
父繭山松太郎死去
越智敏恵と結婚
召集 中支出征
復員 繭山龍泉堂復興
株式会社東京美術倶楽部取締役就任
アメリカ合衆国を初訪問
紺綬褒章受章
欧州各国を初訪問
京橋2丁目の自宅本社新築開店
ニューヨークにホリス・アンド・マユヤマカンパニー設立
繭山龍泉堂を株式会社に改組 初代代表取締役社長に就任
重ねて紺綬褒章受章
株式会社繭山龍泉堂社長を退く
藍綬褒章受章
株式会社繭山龍泉堂会長に就任
逝去
1914年夏 北京
1917年頃 繭山松太郎と順吉 北京
幼少を過ごした北京・東城・崇文門内の自宅店舗前 1980年撮影
大同 1937年頃 23歳
1955年頃 40歳頃
1955年頃
1962年 テオティワカン遺跡 祭壇 メキシコ 48歳
1976年 美術家友好訪中参観団 63歳
1976年 美術家友好訪中参観団 紫禁城
1980年頃 クレッセントハウス